私たちの生活する社会には、たくさんの「悪」あります。「悪」とは、何でしょうか?
殺人をする人
盗みをする人
人の悪口を言う人
人をだます人
最近では、パワハラ・モラハラなど・・様々な「悪」があります。
〇〇は、いけない事・・
〇〇は、良い事・・
私たち日本人は、そういった教育を受けて育っています。
では、それらがどうして「悪」であり「善」なのでしょうか?
「殺人」は、誰しもが「悪」だと思うでしょう。では、相手を殺さなければ自分が殺されていたら?・・それなら、仕方ないと誰しもがそう思うでしょう。しかし、本当にそうでしょうか?・・自分を殺そうとした相手の家族を自分が殺していて、相手に殺されると思っていたら?・・もうこうなるとどちらが悪なのか?解らなくなります。
では、真実とは何でしょうか?どこまでが真実でしょうか?一般的には、殺人をするまでの経緯となりますが、人の価値観は、自身の経験値によって異なるので、経緯をたどれば生い立ちまで遡る必要があるでしょう。もっと言えば、人は先祖代々の経験値で出来た人格を受け継いで生まれてくるので、先祖まで関係してくるわけです。果たして、殺人に至った真実とは何でしょうか?
もう一度、よく考えてみてください。「悪」とは、何でしょうか?
もう、お気づきでしょうか?「悪」とは、自分が「悪」と決めつけた時に生まれるものなのです。そして、この自然界には「善」「悪」など、存在していないのです。
自然界には善も悪もなく、正しい事も間違った事も存在しません。ただ「在る」だけで、全ての現実を受け入れるのが自然です。善悪の判断基準は、私たち人間が創り出したものであり、ただ単に私たちの社会の秩序を保つためのルールとして必要なものに過ぎないのです。即ち、私たちが生きるのに都合の良いものが「善」であり、都合の悪いものが「悪」に過ぎません。
自分に都合の悪い物事は、見て向ぬふりをするのが人の本質でしょう。そして、誰しも自分は良い人だと思いたい。少なくとも悪い人ではないと思いたい。そして、社会というものは、維持する事に都合の悪い物事を徹底的に排除し隠します。なぜならば、そんな本質を持つ人間が集まった場所が社会だからです。
しかし、自分に都合の悪い事実を直視しなければ、「真実」を知る事が出来ません。「真実」を知らなければ、我々は、進化も成長も出来ません。日々の生活の中でも、「真実」を直視しないが為に、何度も同じ過ちを繰り返す事になる。
私たちは、常に「悪」という対象を生み出し、事実を誤魔化して過ごしています。そして、そんな人たちが集まって過ごしているのが、我々の社会です。よく考えてみて下さい。スーパーに並ぶ精肉や焼き肉屋で網の上で焼かれる肉は間違いなく、私たちの代わりに誰かが殺した、牛や豚、鶏の肉なのです。肉を食す時は、牛や豚、鶏の捌かれる姿を想像して感謝しながら食べるべきだと、私は、そう思っているのですが、そんな事を口にするとその場の空気が固まります。都合の悪い事は、伏せ続けて、自分に都合よく過ごすのが人間の本質だからです。
私は、自分に都合の悪い物事に直視し続けていれば「悪」を生み出さない人になれると思っています。なぜならば、自分に都合の悪い物事が「悪」なので、自分の中にも「悪」がある事を知る事が出来るからです。自分の中にある「悪」を知る事が出来れば、どんな人も自分以外の「悪」を責める事が出来なくなります。自分が創り出す「悪」がどんどんとなくなれば、不平不満もなくなり毎日が過ごしやすくなるものなのです。そもそも自然界には「善」も「悪」もないので、自然体で過ごせるようになるでしょう。