私たちが過ごす社会には、様々なルールがあります。皆がルールを守る事によって、社会の秩序が保たれ毎日が過ごしやすくなります。従って、ルールを守らない事を「悪」とし、排除の対象となります。そして、そのルールを元に「常識」や「あたりまえ」が生まれます。
私たちは、社会のルールを守る事を「良い事」として、日々過ごしている為、無意識に「常識」や「あたりまえ」を「良い事」とし、「良い事」に従って日々を過ごしてしまいます。社会のルールは、あくまでも私たち社会の秩序を保つためにあるだけなのに、そこから生まれた「常識」や「あたりまえ」の方向に向かって過ごしてしまうのです。その為、どうしても実現できない事が「常識」であったり「あたりまえ」であったり「良い事」としてしまい、様々な苦悩をまき散らしてしまいます。
例えば、私たちは「他人を傷つける事は悪い事」とします。これは、社会のルール上、故意に他人を傷つける事を良くない事としているだけですが、これが「常識」となってしまう事で、様々な争いが起きます。心を壊してしまう人もいるでしょう。そもそも、自らの言動で他人を傷つけないで過ごす事など不可能なのです。
なぜならば、人それぞれ価値観が異なるからです。同じ言葉や行動でも、それにより喜ぶ人もいれば、傷つく人もいます。相手の成長の為に「叱る」行為も、感謝する人もいれば、パワハラだ!と訴える人もいるでしょう。そして、自分と他人は価値観が異なります。価値観は、自らの経験からくるものなので、自分と異なる経験をしている他人の価値観を理解する事なの不可能です。従って、他人を傷つけないで過ごす事が出来る人など存在してません。
他にも、多くの人が「世界平和」は良い事としているでしょう。それが「常識」だからです。では、想像してください。すべての人が、毎日笑顔で過ごしている人しかいない世界を。右を見ても、左を見ても、外国に出かけても、皆が皆、笑顔な人しかいない社会を。自分に置き換えてみてください。常に他人の意見を認め、他人の言う事を何でも受け入れている自分を。少なくとも、私はそんな気持ち悪い社会で過ごしたいとは思いませんし、「ありえない事」だと思っています。
私たちは、「利己的な心」を植え付けられてこの世に生まれ、様々な争いや様々な苦悩の中で、「利他的な心」を育むように創られています。人は争い、傷つけあって、「ゆるす心」や「利他的な心」を学びます。「ゆるす心」を学ぶためには、どうしても「ゆるせない出来事」が必要なのです。従って「世界平和」など「ありえない事」であり、自然界のルールからすれば、不可能な事なのです。そして、そんな「ありえない事」を「正しい事」とし、「常識」とし、周りに強要する事で、「ゆるえない事」を自ら生み出してしまう。「平和」を唱えながら、自ら争いの心を生み出してしまうのです。